柏原市議会 2022-12-14 12月14日-03号
1970年に、日本そしてアジアで最初に開催された大阪万博は、日本の高度経済成長を象徴する一大イベントとなりました。そして、今回2005年に開催された愛・地球博以来20年ぶりに日本で開催される国際博覧会で、大阪を舞台にした国家プロジェクトとなっております。
1970年に、日本そしてアジアで最初に開催された大阪万博は、日本の高度経済成長を象徴する一大イベントとなりました。そして、今回2005年に開催された愛・地球博以来20年ぶりに日本で開催される国際博覧会で、大阪を舞台にした国家プロジェクトとなっております。
2025年には1970年万博の地、吹田にも国内外から多くの方が立ち寄ってくださることが期待されます。吹田市内全域の路上喫煙禁止に踏み出すべきと考えますが、市長の御見解をお聞かせください。 ○坂口妙子議長 環境部長。 ◎道澤宏行環境部長 まずは担当から御答弁申し上げます。
1970年代にも地域に移行しようとして失敗したことがあります。部活動改革は、先生が働きやすい環境づくりと子どもたちにとっての部活動の充実がセットでなければなりません。現場が頭を悩ますのが、人とお金の手当てだと思います。信頼できる指導者をどこに求め、そのために予算を幾ら国は用意するのか、そういった工程表が自治体に示されているのか。
◎井田一雄都市魅力部長 1970万博の開催地である本市にとりまして、2025大阪・関西万博は、本市ならではの万博レガシーや、健都のまちづくりを市内外にアピールし、その魅力を発信するための絶好の機会であると捉えております。 今後、日本国際博覧会協会や関係団体等における万博開催に向けた取組に全庁的に協力するとともに、万博を本市の取組の啓発手段として活用してまいりたいと考えております。
そもそも1970年の大阪万博の遺産(レガシー)であるこの地を、特定の個人の所有や専有にしないということが条例化の目的の一つであり、だから共同住宅は駄目だということで理解しておりますので、府、事業者にも吹田市の姿勢を曲げることなくしっかりと主張していただきたく、お願いいたします。 次に、この事業計画地近隣でヒメボタルの生息が確認されています。
1970年の大阪万博というレガシーを持つ吹田市は、現在、健都という世界に誇る健康、医療の共創の場で、世界規模のイノベーションを創出するための研究開発が進んでおります。 本市は、2025年の大阪・関西万博においてアピールする材料に事欠かない自治体であると考えます。TEAM EXPO2025共創パートナーとして登録してアピールされる自治体もあります。
警察庁の発表では、1970年頃には1万6,000人を超えていた交通事故死者数は、1996年以降1万人を下回っています。近年は4,000人以下に減少しており、2020年は3,000人を下回りました。昨年の交通事故による死者数は2,839人で、前年比376人、11.7%の減少であります。4年連続で戦後最少を更新して、初めて3,000人を下回りました。
今後につきましては、万博推進局をはじめとする関係団体と連携の上、1970年に開催された大阪万博の会場であった本市の特性を生かした取組を検討してまいります。 以上でございます。 ○池渕佐知子副議長 8番 後藤議員。 (8番後藤議員登壇) ◆8番(後藤恭平議員) あと2年ほどしか予算を組む年度はありません。
国道25号バイパス構想につきましては、1970年に策定された第1次総合計画、そして、その後の第2次総合計画、第3次総合計画まで、今のルートではないんですけれども、明記されていたこともありました。その後、第4次総合計画の中ではなくて、都市計画についてはマスタープランを策定されておりまして、そちらには構想自体が消えてしまっていました。
共同利用施設、以前、私がいつぞやの一般質問で申し上げたことがあるのですけれども、本当に1970年代のある時期までは池田市内の南部には公共施設が全然ないと、本当に幼稚園と保育所、学校を除くと何もなかったという中で、この設立年月日を見ますと、神田会館が昭和44年、豊島南会館昭和46年、住吉会館が昭和46年と。
その万博は、1970年に開催された大阪万博から55年を経ての開催となります。あのときの万博を私はリアルで体験をしているのですが、55年後の世界が今のような状況になっていることを当時は予想だにしていませんでした。 人類の進歩と調和をテーマにうたい、科学技術の発達により、21世紀はきっとすばらしい社会になっているに違いないと、私だけではなく多くの人がそのように信じておりました。
VR等を使って2025年大阪万博を体感できるサテライト会場を吹田市の万博記念公園に誘致ができれば、1970年万博時に建てられた太陽の塔と2025年大阪万博を同時に味わうことができる唯一無二の魅力的なサテライト会場になることは間違いありません。 その観点から、2025年の大阪万博のサテライト会場誘致に関する市の認識、これまでそのような検討がなされていたのであればその経過をお示しください。
約50年の時を経て、再度、ここ大阪で開催される2025年万博のテーマであります、いのち輝く未来社会のデザインに賛同することで、1970年万博のテーマである、人類の進歩と調和が新たなステージに到達できるのではないでしょうか。 また、大阪万博2025に登録した上で、共創チャレンジメンバーを本市が募集し、市民活動を創出することもできます。
昔、私は1970年の日本万国博覧会のとき、初めて多くの外国の方と接し、習いたての訳のわからない英語で話しかけたことを今でも覚えています。とにかくいろいろな方との触れ合いが、子どもたちへのバリアフリー教育につながると考えます。 その一つとして、車椅子ダンスという公演があります。現在、泉州地域の多くの市町村の学校においても、定期的に公演されているグループであります。
50年前の1970年7月1日。四條畷町が市制を施行し、人口約3万6000人の四條畷市として、歩みを始めました。 始めの30年は、都市化が一気に進展します。 次々に新設される学校や公共施設、パークヒルズ田原のまちびらき、99%を超える下水道整備率など、この間に実施されたまちづくり事業は、枚挙に暇がありません。
私は、大阪万博開催を翌月に控えて何となくざわざわしていた大阪、池田市に、1970年2月に引っ越してまいりました。来年でちょうど池田在住50年になります。私が来てまず思ったことは、小学校が遠かったということであります。まだ石橋南小学校がなかったものですから、石橋4丁目の阪急電車の道の脇の家から北豊島小学校まで20分、30分かけて通ったことを覚えています。
(2番澤田議員登壇) ◆2番(澤田直己議員) 1970年の万博開催時には、万国博中央駅が現在の中国自動車道の一部に通っており、梅田駅から万国博中央駅まで24分という速さで期間中2,000万人以上を輸送したと聞いています。 今でも千里中央駅付近から地下鉄のトンネルが一部残っているようですが、このトンネルを再活用し、もう一度北大阪急行電鉄を万博まで延伸することは可能でしょうか。
◆64番(西徳人君) 1970年の大阪万博では、今では考えられないような世界76カ国、約6,400万人もの方々が来場されました。いまだに語り継がれているような、また当時のことを懐かしむ声が数多く聞かれるわけでございます。
このため残業代が原則として支払われず、そのかわりに給料月額の4%を一律に支給する給与制度が1970年代から続いています。 日本の先生は忙し過ぎて学校現場は手いっぱい、部活、事務など、教職員の働き方改革、さまざまな意見が出ております。
1970年に始まった吹田まつりは吹田の夏の風物詩として市民に親しまれ、前夜祭が江坂公園と千里南公園で行われ、本祭りがJR吹田駅周辺で行われました。 ダンスコンテストの好いたおどり、盆踊り大会、千里スカイランタンナイト、参加型の水かけイベント、吹田スプラッシュパーティーやその他だんじり曳行など、各会場ごとに特色のある催しで来場者を魅了し、吹田まつりは市民とともに歴史を刻んでまいりました。